東京都台東区・浅草雷門付近のある香港料理店は、日本で言われる「中華料理」とは全く異なる印象を与える店だ。香港出身のオーナーシェフは本場の味を日本人に伝えることを胸に日々奮闘している。同時に、シェフの料理は日本にいる香港人の郷愁(きょうしゅう)も満たしているのだ。
浅草では珍しい外国料理店
「乾炒牛河(牛肉フォー炒め)、それから松露焼売(トリュフシューマイ)ですね、少々お待ちください」
料理を注文した時のお決まりの言葉「少々お待ちください」が、この店では20分にもなることがある。この忙しい東京で注文から料理が出て来るまでに20分もかかるなんて、耐えられない人もいるだろう。時間がかかるのには理由がある。スタッフはたった1人、36歳のオーナーシェフの鄧日成さんだけなのだ。つまり接客、調理、皿洗いに掃除の全てを鄧さん1人でこなしているのである。
東京都台東区の「火炎香港創作料理」は、2018年9月に開業して以来、東京在住の香港人が集まる場となった。座席は10席程度。毎日ランチとディナーのピークタイムになると、鄧さんは大忙しだ。飲食店はできるだけ素早く注文をさばかなければならないものだが、「火炎」では多少遅くなっても仕方ないようだ。
浅草は日本の伝統文化の象徴的存在だ。多くの日本人や外国人が浅草観光に訪れる。観光客が楽しむのはしゃぶしゃぶやうなぎ、天丼などだ。わざわざ浅草に来て外国料理を食べる人は少ない。ましてやそこまでメジャーではない香港料理ならなおさらだ。
これまで決して順風満帆というわけではなかった。鄧さんは「プレオープンの1カ月はわりと良かったのですか、正式にオープンしてからがキツかった。1週間で10人しかお客さんが来ないこともあった」と笑いながら振り返る。一大観光地で、外国人が店を開く厳しさを思い知らされた。頼りになるのは、来てくれた人の口コミだけだった。
開業から1年半をなんとか乗り切り、常連客が増えて手応えを感じ始めた2020年1月末、無情にも新型コロナウイルスの脅威が押し寄せてきた。緊急事態宣言の期間中、店は閑散として、せっかく築き上げた客とのつながりを失ってしまった。それでも、宣言が解除されると、客足は少しづつ戻ってきた。
ゼロから学んだ香港料理
来日して10年近い鄧日成さんだが、もともとは東京の料理学校でお菓子作りを学んでいた。故郷の味が懐かしくなって、香港料理の店を探そうとしても、東京には香港人が納得できる店がとても少ない。そこで鄧日成さんは望郷の念を胸に、まず香港の料理をYouTuberから学んだ。鄧日成さんの香港料理への思いと料理学校での経験が結びつき、店の誕生へとつながっていったのだ。
店内で提供される全ての料理は、鄧さんの手によるものだ。看板メニュー「 乾炒牛河」で使うお米の麺・フォーも鄧さんの手作りなのである。自家製のフォーには相当コストがかかっており、1週間で10皿程度しか提供できないのだそうだ。人気のシューマイは、毎朝1つ1つ手で包み、その日のうちに売り切るようにしているという。
店のメニューの中では「乾燒伊麵(香港焼きイーフーメン)」「 豆豉炒蜆(アサリのトウチ炒め)」「鹽酥蝦(胡椒塩エビ揚げ) 」など香港の屋台料理が大人気だ。ほかにも、「黃金蝦多士(海老トースト)」や「松露燒賣(トリュフシューマイ)」など創作料理もある。メニューによっては予約しなければ食べられないものもある。
「香港料理を広めたい」というとなんだか崇高な使命のように聞こえるが、鄧日成さん自身はただおいしい香港料理を紹介したいと思っているだけだという。店に来る日本人の大半は、過去に香港へ旅行や仕事で行ったことがある人だ。もちろん、そうでない日本人客もいる。中には香港がどこにあるかも知らない人さえいたそうだ。「香港は台湾の一部とか、台湾の離島だと思っている人もいましたよ」と鄧日成さんは笑いながら話した。
日本では香港料理と広東料理は大した違いがないと思われがちだ。両者の違いについて、鄧日成さんは「香港は『文化のるつぼ』なんです。英国統治時代にたくさんの西洋料理が伝わりました。東西料理文化の融合があったと言っていいでしょう」と指摘する。
香港料理には、西洋やインドなど異文化から影響を受けた例がよく見られる。最も分かりやすい例が「 叉燒酥(チャーシューパイ)」だ。西洋のパイ生地と広東のチャーシューが合わさり、香港独自の東西文化が融合した料理が生まれた。異文化という切り口からだと「香港料理」にもまた別の見方が生まれるのだ。
東京下町で味わった困難
鄧日成さんはどうして中華料理の店が多い池袋や新宿ではなく、浅草の地を選んだのだろうか。
日本では外国人が店を出すのは容易なことではない。中華圏出身となると、人脈がなければ、出店のハードルはさらに高くなる。
当初、鄧日成さんが物件探しを始めたとき、まずは日本の仲介業者を頼った。しかし多くの物件では外国人との賃貸契約を嫌がって、意図的に賃料がつり上げられる。一度、大通りに面した物件が決まりかけたとき、もともとは手ごろな賃料だったのに、物件のオーナーが賃料を100万円に上げ、断念せざるをえなかった。
最終的には、鄧さんの熱意を知った仲介業者がオーナーの説得に動いてくれたそうだ。そのとき、ちょうど浅草の老舗洋食店が店長の隠居のため店じまいの準備をしていた。店は浅草の閑静な住宅街にあったが、賃料が場所に見合った価格だと思った鄧さんは、その店舗を引き継ぎ、「火炎香港創作料理」の出発点としたのだ。
中国の伝統的占術「八字」を信じる鄧さんは、八字で占った際に彼の姓名に「火」が足りないことを知り、店の名前に「火炎」とつけた。同時に火炎という名には、鄧さんの店への闘志もこめられている。しかし開店したばかりの頃、住宅地や周りの店は、見ず知らずの鄧さんに対し不信感を持っていたと感じることがあったという。
「オープンしたばかりの頃、近所の店の人がその店の常連客と外でタバコを吸いながら、火炎のことを『この店の料理はまずい!小籠包がまずい!』と言っていました」この言葉に、鄧さんは一度は肩を落としたという。「でも彼らは火炎に来たことがないし、うちのメニューに小籠包はないんです」と鄧さんは苦笑しながら振り返った。
この2年で、鄧さんは近所の人たちと少しずつ仲良くなってきたそうだ。香港では盗難や災害から身を守るため、隣近所で互いに助け合う「守望相助」の習慣がある。鄧さんは浅草でも同じように「ご近所さん」と助け合いの気持ちを育んでいきたいそうだ。
実家は有名カフェレストラン
鄧日成さんは来日以前は全く料理の経験がなかったが、実は鄧さんの実家は香港の佐敦(ジョーダン)エリアにある人気店 「澳洲牛奶公司(Australia Dairy Company)」だ。 澳洲牛奶公司は、喫茶店と大衆食堂を組み合わせた「茶餐廳(チャーチャンテーン)」と呼ばれる香港式カフェレストランで、3代続く歴史ある店だ。父親は株主の1人で、鄧日成さん自身も佐敦で育ち、スタッフと共に働き、レジを手伝っていた。
以前、澳洲牛奶公司はネット上で「スタッフの態度が悪い」と批判されていたが、鄧日成さんは「スタッフの性格が悪いのではなく、仕事のプレッシャーがすごかったんです。香港は『手っ取り早く金を稼ぐ』ことが良しとされる場所なので、とにかく効率重視なんです」と説明する。店員は何よりも料理を速く出すことを要求され、それができなければ叱責(しっせき)されるため、話し方も早口で大声になりがちなのだという。
そして、鄧日成さんは「また 茶餐廳は反社会組織とつながりがあるという人がいますが、実際はみんな普通の労働者です。仕事が終わったら家で妻と子供の世話をし、休みになれば海外旅行に行く。みんなと同じなんです」とも話した。
筆者は鄧日成さんに、香港の茶餐廳文化を日本に紹介するつもりはないのか尋ねた。すると鄧日成さんは、茶餐廳を代表する「湯通粉(マカロニスープ)」や「 西多士(香港式フレンチトースト)」「餐蛋麵(ランチョンミートと玉子麺料理)」など東西文化が合わさった香港料理は、揺るぎない飲食文化がある日本人には受け入れられづらいのではないかと感じていると話した。
「火炎」の開店によって、鄧日成さんは自身が香港の文化を広めているなどと言うつもりはない。東京という異国の土地で「火炎」が日本人ファンを獲得できたのは、鄧さんの料理が伝統的な香港料理の味わいを残しながら、同時に彼の考えを取り入れた料理作りにまい進したためだと考えている。
開店以来、忙しさから鄧日成さんは一度も香港に帰っていない。2019年に一度帰省しようかとも思ったが、香港では逃亡犯条例改正反対デモが拡大する中、家族から今はやめた方がいいと言われ、帰らずじまいだったという。そして2020年は新型コロナの流行で、帰省はしばらくお預けだ。しかし、鄧日成さんは悲観してはいない。自分がおいしいと思う香港料理を提供し続け、いずれ香港で料理を学び、本物の香港の味を日本人にもっと知ってもらいたいと願っている。
バナー写真=香港料理が持つ東西文化の融合を大切にし、東京浅草で営業する「火炎」は、日本人に合う香港料理の開発にも力を入れている(筆者撮影)
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November 22, 2020 at 07:00AM
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日本で味わう故郷の味!:素人が立ち上げた香港料理店「火炎」 - Nippon.com
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