■ハンガリーのおふくろさん ハンガリーにはグヤーシュという煮込み料理がある。牛肉と野菜を煮込んだビーフシチューのような料理だ。パプリカの粉末をたっぷり入れるのが特徴で、そのため赤味が強いのだが、パプリカなので辛味はほぼない。もっとも、パプリカの一大産地であるハンガリーには、日本で売られているパプリカ粉末のようにまったく辛くないものから辛いものまで複数あるようで、なかには辛いグヤーシュもあった。 ハンガリー人にとってグヤーシュは日本人にとっての味噌汁のようなものらしい。つくる人それぞれにこだわりがあり、味が違う。 テレザのグヤーシュはピリッと辛かった。あとにも先にもあんなに辛いグヤーシュはなかった。 テレザは、ハンガリーの首都ブダペストにある宿「テレザハウス」の主人だ。普通の民家のリビングに雑魚寝スタイルで泊まる簡易宿で、口コミで日本人が集まるようになった。僕がいたときも、15人ほどの客は全員が日本人だった。 雑魚寝にも階級がある。値段も違う。ベッドだと1泊約580円で、それが埋まるとベッドの隙間にマットレスが敷かれる。そちらは約510円。さらにマットレスも埋まってしまうと、ベッドとマットレスの隙間の"床"に身を入れて寝る。これだと200円。ぼくの身分は "床"だった。 見た目は難民収容所だが、その中に溶けこむと、阿片窟のようになる。こんなに安らぐ場所もない。和気あいあいとしたゆるい雰囲気が肌に染みつき、予定を放り投げ、長期滞在に移行する者も多い。 しかし、宿主のおばさん、テレザのことを快く思っていない者も多くいた。彼らによると「いちいちうるさい」らしい。 昼前になると、テレザはとがった眼をして僕たちの前に現れる。 「ルック、ルック、ブダペスト!」 ブダペストを見てこい、と言っているのだ。旅人たちはだらだらと立ちあがる。テレザは同じ言葉をヒステリックにわめきながら部屋の掃除を始める。みんな追い立てられるように外に出ていく。 たしかにテレザはすぐに逆上する。真っ赤な鬼と化した顔を見ると、手に負えないな、と思うこともあるし、毎日のようにわめくテレザを見ていると、もしかして日本人が嫌いなのでは?という疑念もわく。 でも僕はひととおりではない親しみを彼女に抱いていた。怒っているとき以外の彼女の表情には、老いた女性特有の可愛らしさがにじんでいて、見ているとひなたぼっこでもしているような気持ちになってくる。そもそも一日じゅう部屋でゴロゴロしている若者を見れば、「ルックルック!」と言いたくなるのも当然だろう。 ただ、僕たち長期滞在者は部屋から追い出されると、もうこれといって行きたい場所がなかった。市内はまわり尽くしていたのだ。結局あてもなく散歩し、いつもの市場へと足が向く。昔ながらの市場が町の中心にあって、野菜のみずみずしい香りや喧騒がたちこめている。何度行っても飽きの来ない場所は、やはりこういうところになる。 夕暮れどき宿に戻り、部屋でしゃべっていると、テレザが大きな鍋を持って入ってきた。甘酸っぱい香りがする。グヤーシュだ。ときどきテレザはそれをふるまってくれるのだ。 初めて食べたときは、グヤーシュにしてはピリッとした強い辛さに、彼女の気色ばった赤い顔が重なったのだが、最初の辛味が通りすぎると、酸味とまろやかさのまじった柔らかい味が広がり、嚥下したあとは胃の中からしみじみと温かくなった。素朴だけど、いかにも手づくりの滋味にあふれているのだった。 テレザは僕たちの食べる姿を静かに見つめている。「ルックルック!」と叫んでいたときとは別人の顔だ。やつれて、目尻が垂れている。ドラ息子たちに手を焼き、やれやれ、とつぶやいているような、やさしい顔だった。 テレザはどんな思いで、異国から来たダメ息子たちに、このハンガリーの味を伝えようとしたのだろう。そんなことを、ずっとあとになってから考えずにいられなかった。 僕が泊まったときから4年後、テレザは病気で亡くなった。 それを人から聞いたとき、頭が真っ白になり、そのあと脳裏に浮かんだのは、グヤーシュをすする僕たちを見つめていた、あの穏やかな顔だった。 文:石田ゆうすけ 写真:島田義弘
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