「ずいずいずっころばしごまみそずい 茶
あまりにも有名なこの童謡は、江戸時代の「お茶壺道中」の様子を描いたとされる。宇治茶をよく用いた江戸幕府は、春の新茶の時期、茶葉を買い上げる役人の一行を派遣した。
宇治で抹茶の原料となるてん茶を壺に詰めてかごに載せ、中山道や東海道を通って江戸へ帰る。3代将軍徳川家光の時代に正式に始まり、宇治市史によると、行列は数百~1000人以上にものぼったという。大名行列も道を譲るほどの権威で、事前の道路整備や茶壺運搬などのため、各地で多くの使役も課された。
沿道地域の負担は重く、子どもたちの出入りすら禁じられたため、住民はお茶壺道中を恐れた。それが「茶壺に追われてとっ(戸を)ぴんしゃん(ぴしゃりと閉める) 抜けたら(通過したら)どんどこしょ(やれやれ、と息をつく)」という歌になったという。
宇治茶の歴史は、13世紀の鎌倉時代にさかのぼる。臨済宗の開祖・栄西が中国の宋から持ち帰った茶の種を僧の
秀吉の宇治茶に対する愛情がにじみ出ている朱印状が、約450年にわたって製茶販売業を続ける宇治市の「
先祖の上林久茂は当時、宇治の有力な茶師で、秀吉との関係も深かったが、あるとき、納めた茶壺への詰め方が粗雑だったことを
市史は朱印状について「上林の慢心を制し、またその茶の品質に特徴あることを認めて(中略)
秀吉の死後、家康が天下を取っても上林家への厚遇は変わらなかった。本能寺の変(1582年)直後、大坂・堺に滞在していた家康が、明智光秀の軍勢や落ち武者狩りを避けながら急ぎ三河に戻った「伊賀越え」で、久茂らが現在の木津川市から滋賀県甲賀市周辺まで先導役を務めたことなどが、家康に深い感銘を与えたのだという。
幕末、江戸で宇治茶を扱う
◇
宇治茶が誕生して、およそ800年。時の権力者から庶民まで愛されてきた茶葉はスイーツにも用途を広げ、海外も視野に入れる。新型コロナウイルス禍に見舞われる中、人々がいかにその味を守り、広めようとしているのかを追う。
◇宇治茶 京都、奈良、滋賀、三重の4府県で栽培された茶を京都の業者が宇治に伝わる製法を使い、京都で仕上げた緑茶。府茶協同組合(宇治市)に商標登録されており、府内の生産地は南部の山城地域のほか、舞鶴、京丹後、綾部各市など。露地栽培の煎茶のほか、苦みを抑えてうまみ成分を増すため新芽の生育期間にわらなどで遮光して仕上げたてん茶や、かぶせ茶、玉露が全国に流通している。
府などは2011年から、宇治川や木津川沿いの丘陵地に広がる茶畑や問屋街などの美しい景観の世界文化遺産登録を目指している。
農林水産省の統計によると、2020年度に1次加工された荒茶の国内生産量は計6万9800トンで、このうち京都産は2360トン(3%)を占める。
からの記事と詳細 ( New門@京都 <宇治茶>権力者の愛した味今に - 読売新聞 )
https://ift.tt/3vAwSlT
No comments:
Post a Comment