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Thursday, April 21, 2022

黒田官兵衛の賭け~関ヶ原の戦い、知られざる第3極の計略 - 日経ビジネスオンライン

 黒田官兵衛(如水)は、羽柴秀吉を天下人にした名軍師として知られている。しかし秀吉は天下統一をはたした後、官兵衛には豊前中津を中心とした12万石しか与えなかった。

 これについて日本の史書は「秀吉は有能すぎる官兵衛を恐れて、大国を与えなかった」と記しているが、本当の理由は官兵衛がバテレン追放令後も信仰を捨てなかったことにあった。宣教師のルイス・フロイスは、官兵衛がイエズス会のために秀吉に直訴してくれたと、『日本史』の中で感激に満ちた文章で記している。

 小田原北条氏を攻めている陣中のことで、官兵衛の狙いは天正遣欧少年使節に同行して再来日しようとしているアレッサンドロ・ヴァリニャーノと秀吉を対面させることにあった。

 <さらに(黒田)官兵衛殿が関東にいた時のことであるが、ある時、彼が我らの使節一行のためを思って発言すると、関白は、汝はまだ性懲りもなく伴天連どものことを話すのか。汝が伴天連らに愛情を抱いており、また汝がキリシタンであるために、汝に与えるつもりでいたもののうち、多くを取り上げたことを汝は心得ぬか、と答えた>(『完訳フロイス日本史5』中公文庫)

 それでも官兵衛は引き下がらず、イエズス会のために尽力しつづけた。

 <官兵衛は自ら司祭たちに逢った時にも、また書状によっても、同じ司祭たちを驚嘆させるほどの大いなる愛情と親密さをつねに保持し続けて来た。こうして彼は、このたびの巡察師の使命が立派に成就できるよう、その順序と方法を案出するために無数の策を試みた>(同前)

 この努力は実を結び、秀吉は翌年(1591)の閏1月8日にヴァリニャーノと聚楽第で対面した。つまり秀吉のバテレン追放の方針は、官兵衛やイエズス会の巻き返しによって撤回されたのである。

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