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Tuesday, September 5, 2023

<城、その「美しさ」の背景>第51回 尼崎城 西国ににらみ利かせた ... - 読売新聞社

地上から姿を消した海に浮かぶ城

明治維新を迎えるまで存在していた壮大な城郭が、すっかり市街化するなどして、いまでは地上に痕跡すらほとんど見つけられない、というケースがいくつかある。その代表的な例は、越後(新潟県)長岡藩の居城だった長岡城(長岡市)で、戊辰戦争でほぼ焼失したのち、旧本丸に長岡駅ができ、ほかの城地はすべて市街化され、現在では文字どおりになにも残っていない。

摂津(大阪府北西部、南西部、兵庫県東部)尼崎藩の尼崎城(兵庫県尼崎市)も同様で、堀もすべて埋め立てられて市街化し、地上にかつての痕跡を見つけることができない。しかし、元来の尼崎城は、明治以降にすっかり姿を消したとは到底信じられないほどの広壮な城郭だった。

元和3年(1617)から数年かけて、庄下川などが大坂湾に注ぐデルタ地帯に尼崎城を築いたのは、この地に5万石で入封した譜代大名の戸田氏鉄だった。すでに2年前には一国一城令が発布され、武家諸法度によって新規築城が禁じられたばかりか、城郭を修復する際もいちいち幕府に届け出ることが義務づけられていた。そんな状況下で氏鉄は、約300メートル四方に3重の堀をめぐらせ、正方形に近い本丸の四隅には、四重の天守のほか3棟の三重櫓を建てるという、壮麗きわまりない城を築いた。

新規築城が禁止された直後のあらたな築城は、いうまでもなく幕府の命によるものだった。理由は2つあった。ひとつには、豊臣家を滅ぼした幕府は、大坂を西国支配の拠点にすべく直轄地にしていた。その大坂を西から守るために尼崎城が必要だったのだ。

外堀の役割を果たした庄下川と天守

もうひとつは、姫路城(兵庫県姫路市)を居城とする姫路藩と関係していた。姫路藩には西国の諸大名を監視する役割があったが、家督を継いだ池田光政が8歳と幼少だったため、幕府は光政を鳥取へ移し、伊勢(三重県東部)桑名藩の本多忠政を姫路に据えたが、その領地は15万石で池田時代の半分以下だった。そこで、信濃(長野県)の松本にいた小笠原忠真を姫路の東の明石に10万石で配置して築城させ、さらに東の、水陸交通の要衝だった尼崎には戸田氏鉄を置いて尼崎城を築かせ、西国への備えを二重、三重にしたのである。

こうして築かれた、5万石の大名には立派すぎる城は、藩主が戸田氏に続いて、同じく譜代の青山氏、櫻井松平氏へと変わりながら250年にわたって威容を誇った。四重の天守も焼けたり壊れたりすることなく、明治を迎えるまで命脈をたもった。そんな城が、地上から跡形もなく消え去ったのである。堀は次々と埋め立てられ、本丸などの石垣は尼崎港の防波堤の石材などに流用されてしまったという。

篤志家の寄付で復興された天守。この面の古写真が残るが、実は左右は写真と逆

海に浮かぶようで、堀には海水が引き込まれていたその城は、復元図等で見るかぎり息をのむほど美しく、安易に市街化してしまったことが悔やまれる。

地元の篤志家の寄付による平成最後の築城

天守および本丸に建っていた三重の武具櫓、伏見櫓は、明治6年(1873)に廃城になる直前に撮られたとみられる古写真が残っている。それによると四重の天守は、下層から上層まで同じかたちの床面を漸減させながら積み重ねた層塔式で、白漆喰で塗り籠められている。また、平側(軒に並行した長い側面)は最上重の屋根に唐破風、三重目に大きな切妻破風、二重目には大きな唐破風が、中央に垂直に並んでいる。シンプルな構造に、装飾が効果的に添えられて美しい。

じつは、いま阪神尼崎駅を降りると、この古写真とそっくりの天守が南東方面に遠望できる。鉄筋コンクリート造のこの天守は、平成28年(2016)に着工され、約2年をかけて同30年(2018)に完成したもので、「平成最後の築城」といわれている。

尼崎城址公園と天守

家電量販店ミドリ電化(現エディオン)の創業者である安保詮氏が平成27年(2015)、創業の地への恩返しとして、10億円以上の私財を投じて尼崎城を建築し、市に寄贈したいと申し出たという。市としては願ってもない話なので、安保氏とのあいだに「尼崎城の建築及び寄附に関する協定」を結んで話を進めた。

ただし、本丸の跡地は市立明城小学校の敷地になっているなどして整備が困難であるため、旧本丸からは300メートルほど北西の、尼崎城址公園となっていた旧西三の丸の一角に建設することに決められ、平成28年12月20日に着工。その際、周辺の整備は市の予算で行われたという。平成31年(2019)3月29日から、有料の観光展示施設として一般公開されている。

石垣や塀も天守と同時に整備された

東西が反転させられるなど「史実」とは異なるが

気になるのは、安保氏が市に申し入れてから着工するまでの期間が、きわめて短いことである。市の言い分は、尼崎城の跡地は国などの史跡に指定されていないため、文化庁の規制がかからなかったので、建設計画をスムーズに運ぶことができた、というものだ。

しかし、文化庁の規制がないなりに、尼崎市は発掘などによって独自に城の遺構を確認、整備してから建設してもよかったのではないだろうか。本丸の跡地に建てるのは困難であったにせよ、元来、天守があった場所の発掘調査などによって、史実に近づける方法はなかったのだろうか。

石垣や塀もオリジナルではない

というのもこの天守は、外観は『尼崎城天守閣及び櫓図』(尼崎市教育委員会所蔵)をはじめとする江戸時代の絵図や古写真を参考に、往時の姿を再現しているとされている。ところが、見栄えを優先して東西の方向を反転させるなどしているのである。むろん、「史実に反する」という批判は少なからず存在する。

内側から天守を見る。旧天守の付櫓の位置は左右逆だった

史実と位置が異なるのは目をつぶるとしよう。予算などの関係で鉄筋コンクリート造になったのも仕方ない。史実では4階だった内部を5階にしたもの、「外観復元」に反しているわけではない。しかし、安易に東西を反転させてしまっては、尼崎の歴史を視覚的に示すための有効な施設になりうるところが、その価値をみずから棄損することになってしまはないだろうか。

ただ、そうはいっても、この天守があるおかげで、尼崎という工業都市にかつて、おのおのの建築も、城地全体も、すこぶる美しかった大城郭が存在したことに思いをいたすことはできる。そして、かつての雄姿を思い浮かべるための、よすがになることはまちがいない。

最上階の内部は木でしつらえてある

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等、近著に『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(同)がある。

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