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Saturday, June 3, 2023

<城、その「美しさ」の背景>第42回 武田氏館 オールドスタイル ... - 読売新聞社

天然の要害の地で発展し続けた居館

 

戦国最強といわれた武田信玄(出家前の諱は晴信。ここでは信玄に統一する)。実際、元亀3年(1573)の三方ヶ原の合戦で徳川家康を完膚なきまで打ちのめしたあと、そのまま進軍していれば、家康も織田信長もどうなったかわからない。元亀4年(15732月に足利義昭が反信長の立場を鮮明にしたのも、信玄の進軍が前提だった。しかし、信玄は病に蝕まれていた。胃がんだと考えられている。武田軍は撤退するほかなく、甲府に向かう途中、志なかばで命を失った。

 

そんな信玄が領国経営の拠点にしていたのが甲府(山梨県甲府市)の武田氏館(躑躅が崎館)である。

信玄も使ったという主郭の井戸

武田氏の滅亡後も、天正18年(1590)以降に甲府城が築かれるまで、甲斐国(山梨県)統治の中心だったこの館は、呼び名が「城」ではなく「館」であることからも、中世の城館の流れを汲むことがわかる。事実、足利将軍家の邸宅だった花の御所や、それに倣った各国の守護館と同様に方形の居館からスタートし、次第に複雑な縄張りへ発展している。

 

では、どう発展したのか。まずは武田氏館の歴史をたどってみたい。

 

武田氏館を築いたのは信玄の父の信虎で、永正16年(15198月に工事を開始し、12月に居を移している。それまでは現在の石和温泉駅の西南にあった川田館を本拠にしていたが、笛吹川の反乱に悩まされたようだ。そこで相川扇状地にあらたに城館を築いた。そこは三方を山に囲まれ、西の相川、東の藤川にはさまれた天然の要害で、扇状地ゆえの傾斜地なので、川の氾濫に悩まされることもなくなった。

信虎時代は守護館の典型的スタイルである、堀で囲まれた方形の館で、規模はほぼ200メートル四方だった。それが信玄の代になり、所領が広がるにしたがって拡大していった。

 

天文13年(1543)に大規模な火災に見舞われ、かなり改修が加えられたようだ。また、天文20年(1551)、のちに幽閉されて死去する嫡男の義信が、今川義元の娘を正室に迎えたのに合わせ、主郭の西側に西曲輪が増設された。また、北側には西から味噌曲輪、鎮守の御崎社を祀った稲荷曲輪、信玄の母親の隠居所と伝わる御隠居曲輪などが増設され、戦国大名の居館としては最大級になった。

西曲輪北側の枡形

天正9年(1581)、武田勝頼は館を廃棄して新府城(山梨県韮崎市)に移るが、翌年、勝頼が死んで武田氏が滅亡したのちも、信長、家康、そして羽柴秀吉がそれぞれ館を利用し、改修を施した。たとえば、主郭の北西隅に天守台が築かれ、南西には梅翁曲輪が新設されている。

梅翁曲輪の周囲の水堀

整備された厳重な大手周辺

 

それでも、根幹は旧式の館には違いなかったが、信玄にすれば、新式の城を築いて移転する必要は感じなかったのだろう。第一に、主郭の周囲を曲輪群が取り囲み、すでに城郭化が進んでいた。第二に、扇状地を2キロあまりさかのぼった要害山上にある要害城が、緊急時に立てこもる詰の城として機能していた。第三に、これ以上の天然の要害の地はほかになかったと思われる。

 

先ほど三方を山に囲まれ、2つの川にはさまれている旨を記したが、加えて扇状地であるため、南の甲府盆地に向かって傾斜になっている。一見、平地に築かれているようで、歩くとわかるが南にかなり傾斜しており、このため堀も南側は水堀だが、北側は空堀である。甲府盆地からは攻めにくく、守るには有利な地形であることがあきらかだ。

 

そんな武田氏館は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦以前に廃棄されたにしては、旧状をかなりとどめている。しかも、平成16年(2004)に「整備基本構想及び整備基本計画」が策定されてからは、発掘調査をともなった保存と整備が進んでいる。

主郭部分は現在、武田神社の境内。観光客にもおなじみのスポット

では、館を歩いてみよう。主郭は大正8年(1919)に創建された武田神社の境内になり、南側から堀を渡る参道が通じているが、神社ができるまではここに入口はなく土塁が続いていた。館の大手はここではなく東側にある。

 

主郭を囲む堀の東側に惣堀があり、それを渡って石の階段を下ると、大手門につながる土橋の前に、外敵がまっすぐ侵入するのを防ぐための石垣による馬出がある。その左右から回り込んでようやく大手門にたどり着く。かなり厳重に防御されている。

大手門前に復元された石垣による角馬出

いま記した惣堀と土塁、虎口の石段、大手門前の石垣などは、発掘調査のうえ復元、整備されている。ちなみに、石垣の馬出は武田氏滅亡後に築かれたもので、その下からは武田時代に築かれた、三日月堀で囲まれた丸馬出が見つかっている。

 

旧式を整備して最先端に?

大手門の両脇には高い土塁が

大手門には石積みが残り、主郭から西曲輪へと渡る虎口にも石積みが見られる。また、主郭も西曲輪も、なかに立つとかなり高い土塁に囲まれているのがわかる。この土塁は元来、幅20メートル、高さ12メートルにもおよんだという。約16メートルの堀幅と合わせればかなりの防御力だったはずだ。

 

武田神社の北西には、武田氏滅亡後に豊臣政権下で築かれた天守台の石垣があり、立入禁止だが、離れて眺めることはできる。ただし、天守が建てられたかどうかはわからない。主郭と西郭には井戸も残る。

豊臣政権下で設けられた天守台

西曲輪では南北の出入口を見逃せない。武田氏の城に特徴的な枡形が見られ、最初の門を通ると土塁に囲まれた正方形の空間があり、もうひとつの門が設けられている。とくに南側の枡形は整備され、構造がよくわかる。石垣は武田氏滅亡後、豊臣政権下で整備されたものだが、その下には武田氏時代の門の礎石を見ることもできる。

西曲輪南側の枡形
西曲輪南桝形の石垣。下部には武田時代の礎石が

また、北側の虎口を出て土橋を渡ると、現在、味噌曲輪、稲荷曲輪、御隠居曲輪一帯で発掘調査が行われている。とくに虎口の前には馬出が掘り出されているようだ。南側の虎口の前にも馬出があったことがわかっており、いずれの虎口もかなり厳重な構えだったことになる。

 

たしかに旧式の城館かもしれない。しかし、信玄が整備を重ねた結果、重厚と呼べるほどの構造になり、各所の防御施設も抜かりがない。信玄にすれば、「この城館でいったいなにが不足か」という思いだったことだろう。その余裕が、ある意味、美にまで昇華されているように感じられる。

西曲輪をめぐる水堀

徳川家康は天下人になったのち、大坂の豊臣家に備える意味もあり、篠山城や名古屋城、駿府城など、方形の曲輪を中核にした城を多く築いた。縄張りそのものは単純化して使いやすくする代わりに、広い堀や高い石垣、枡形虎口などで鉄壁の防御態勢を敷いた。それらの城のスタイルは、武田氏館ととてもよく似ている。じつは、この館は旧式どころか最先端につながっていたのかもしれない。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等、近著に『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(同)がある。

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