大坂の陣前は大坂を攻める、陣後は大坂を守る重要拠点
岸和田城(大阪府岸和田市)は別名、千亀利(ちきり)城という。機の縦糸を巻く千亀利という器具があるが、北西から南東にかけて二の丸と本丸が、ちょうど千亀利のように重なって並んでいるからだという。現在、岸和田城はまさに「千亀利」に該当する部分の石垣と堀が残っているが、明治維新を迎えるまでは堀がさらに幾重にもめぐらされ、とくに北側(正確には北東側)、すなわち大坂に向いた側が厳重な構えになっていた。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、元和5年(1619)に大坂は幕府の直轄地(天領)となり、翌年から将軍徳川秀忠の命で大坂城の再建がはじまった。その大坂を挟むように守る役割が与えられたのが、元和3年(1617)からあらたに築城された尼崎城(兵庫県尼崎市)と、この岸和田城だった。まさに大阪が天領になるタイミングで、城主だった外様大名の小出吉英が但馬(兵庫県北部)の出石に転封になり、譜代大名の松平康重が城主になっている。
それ以前も岸和田城は、大坂と和歌山の中間という戦略上重要な地だったため、大坂の陣の際も徳川方の拠点となった。慶長19年(1614)10月、城主の小出吉英が徳川方として出陣したため、松平信吉が、続いて北条氏重が城番として入城している。
また、翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣に際しては、大坂方の大野治胤らの軍に包囲されている。大坂方は和歌山の浅野長晟に、味方につくように再三懇願したが無視されたため、浅野家への攻撃を開始し、その道中に岸和田城も攻撃したのである。しかし、小出吉英は豊臣軍をまったく寄せつけなかった。
ここでいったん岸和田城の歴史を、時系列で整理しておきたい。この城が歴史の表舞台に姿を現すのは、本願寺との石山合戦を終えた織田信長が天正9年(1581)、岸和田城を和泉(大阪府南部)支配の拠点に定め、一族の津田信張と家臣の蜂屋頼隆を入城させたときだった。続いて豊臣秀吉が、紀伊(和歌山県)の根来寺を攻める最前線として、中村一氏に城主を務めさせた。天正13年(1585)に根来や雑賀の征伐がなされると、秀吉は一氏に替わって叔父の小出秀政を城主にしている。
この小出秀政を、秀吉は死の直前に秀頼の補佐を頼むくらい信頼しており、その流れで関ヶ原合戦では、秀政は長男の吉政とともに西軍にくみしたのだが、次男の秀家が東軍についたため、岸和田の所領を安堵された。こうして前述の大坂夏の陣に至り、その後、大坂を守護する戦略上の重要性から、将軍秀忠が譜代の松平信吉を配置。寛永17年(1640)に、今川家、武田家に伝えたのち徳川家康の家臣になった岡部正綱の孫、宣勝が入城し、以後は岡部氏が譜代大名として明治まで代々、大坂を守護する役割を負った。
広島城より高い天守が建っていた
ここまでの記述で、岸和田城が戦略上いかに重要であったかが伝わったと思う。だが、大大名の城だったことはない。小出秀政は入城したときは4000石にすぎず、その後、加増されても3万石止まりだった。続く松平康重が5万石、岡部宣勝でようやく6万石だった。
それにしては城が非常に立派なのである。『岸城古城記』には、小出秀政が文禄4年(1595)から五重の天守を築き、2年後に完成させたと記されている。天守本体の高さが15間(27.3メートル)で、その通りであれば、毛利輝元の広島城天守や宇喜多秀家の岡山城天守よりも高かったことになる。岸和田城がよほど特別扱いされていたということだろう。
この天守は文政10年(1827)まで建っていたが落雷で焼失し、すぐに幕府に再建を願い出て許可されたが、現実に再建されることはなかった。現在、天守台上に建つのは、昭和29年(1954)に建てられた三重の模擬天守である。また、本丸は復興された隅櫓や塀、櫓門で囲まれている。
だが、それらは史実に忠実に復元されたものではなく、見るべきはむしろ、本丸と二の丸の石垣と堀である。本丸は随所で石垣が複雑に折り曲げられ、堀に不沈空母が浮かんでいるかのようである。大坂城の本丸の小型版ともいえようか。また、主に南側には石垣と堀のあいだに犬走りが設けられている。これは防御するうえでは敵に侵入の足掛かりを与えてしまうため、あまり得策とはいないが、あえて設けたのには理由があると思われる。
岸和田城の石垣は、やわらかいが脆い砂岩が6割、花崗岩が4割ほどで構成されている。海岸に近い砂地のゆるい地盤に、脆い泉州砂岩を高く積み上げたため、地盤を強化して石垣の崩落を防ぐために、犬走を設ける必要があったのだろう。それは岸和田が重要な拠点であるため、脆い泉州砂岩であても高く積み上げなければならなかった、ということでもある。
また、本丸の周囲の石垣を観察するだけで、小出時代に由来するであろう、荒加工した石材を積んだ野面積みに近い石垣から、小さな築石をすき間なく積んだ、江戸中期以降に補修したと思われる石垣まで、広くたしかめられる。
街並みとともに美しい
本丸と土橋で結ばれた二の丸で特筆すべきは、伏見櫓跡である。『古今重宝記』によれば、伏見城が廃城になった元和9年(1623)、櫓が下賜されて二の丸に移築されたという。伏見櫓といえば、福山城(広島県福山市)に現存するものが知られる。
福山城は、秀吉恩顧の大名で広島城主だった福島正則が改易され、浅野長晟が和歌山から広島に移った際、外様大名たちのあいだに譜代大名をくさびのように打つ込むために、徳川家康の従兄弟の水野勝成が旧福島領の東部に移封になり、新造した城だった。将軍秀忠は西国大名を監視する拠点整備のために、伏見城の建築を多数提供した。岸和田城も同様に、大坂を守護し、西国を監視するための重要な拠点になったからこそ、伏見城から櫓が下賜されたのである。
ところで、小出時代までの岸和田城は周囲が芦原で、二の丸の石垣まで海水が届いてしまうほどだったという。そこで松平康重は入封後、防潮堤を兼ねて700メートルにわたる浜の石垣を築いた。これによって城下町の整備が可能になったという。この石垣は現在、わずか9メートルだけ現存している。
また、浜の石垣の内側を通る紀州街道は、慶長7年(1602)ごろに整備され、浜の石垣の築造後は、和泉を縦断して大坂と紀伊を結ぶ幹線道路として賑わった。太平洋戦争時に大規模な空襲被害がなかった岸和田には、いまも城下町の風情が随所に残る。
とりわけ紀州街道沿いには、城下町を支えた商家の街並みがいまも残り、保存すべく整備されている。戦略上の重要拠点に築かれた特別な城が、昔ながらの佇まいを残す幹線道路とセットで味わえる。工業地帯として知られる岸和田だが、意外にもエリアとしても美しい。
香原斗志(かはら・とし):歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等、近著に『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(同)がある。
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