「台湾ラーメン」や「台湾まぜそば」など、日本の飲食業界を席巻しているピリ辛のそぼろ肉を使った「台湾風」の原点をたどると、名古屋市にある「味仙(みせん)」という店に行き着く。味仙の創業者であり、現在も経営の第一線に立っている郭明優さんは、日本で生まれ育った台湾人だ。そんな郭さんがどうやって「台湾にない台湾ラーメン」をつくり出し、全国に広めたのだろうか。
台湾人が日本に広めた味
日本における広義の中華料理は、外来の料理でありながら、その流入の行程は単一ではなく、主に中国北部、中国南部、そして台湾の三種類に分けられる。例えば、国民食となったギョーザは中国の北部で食べている「鍋貼」が源流で、中国東北地方の出身者や満州などで生活した日本人引揚者が持ち込んだと言われている。
一方、これも全国で人気のちゃんぽんは、九州の長崎に移民した福建出身者がもたらしたもので、モデルとなる料理は「湯麺」だったとちゃんぽん創始店長崎中華街「四海樓」の創業者は書き残している。
もう一つの流入ルートは、日本が半世紀にわたって統治した台湾である。台湾の場合、日本社会に溶け込んだ台湾の人々が「料理」によって生活の糧を得ようとするなかでその味や調理法を普及させた。最も代表的なものが、名古屋市千種区今池にある「味仙」で作り出された「台湾ラーメン」だ。筆者は、味仙の創業者、郭明優さん(81)を同店に訪ねた。
尼崎から名古屋へ
郭明優さんの先祖は台湾・台中の大甲の出身だ。貿易を営む豊かな一族だったが、明優さんの父親・郭明仁さんは末っ子だったこともあり、1938(昭和13)年に関西に渡って働き、同じ台湾出身者の玉蘭さんと出会って結婚、1940年に郭さんが生まれた。家族は兵庫県尼崎市で終戦を迎える。
「いまでこそ皆さん、地震などの時は台湾のことを心配してくれるけど、戦争中はそんなわけにもいかんかったもんね。自分たちの防空壕(ごう)が焼けても、台湾人ということで、他の防空壕には入れてもらえんかったこともありました」
生活を一から立て直すため、尼崎から東京に向かうつもりで列車に乗ったが、たまたま途中下車した名古屋で一家は定住することになった。配給の小麦を手に入れ、揚げまんじゅうなどを売って糊口(ここう)をしのぎながら、父・明仁さんは名古屋駅の近くで中華料理店「万福」を開いた。
「戦勝国民」の特権で、GHQの配給や台湾からの仕送りによって、小麦が日本人より入手しやすかった。それを生かして飲食業でビジネスを展開したのは、いずれも戦後初期に「チキンラーメン」を売り出した日清食品の創業者・安藤百福氏や、大阪の豚まん「蓬莱551」を創業した羅邦強氏などの台湾人とも共通し、日本全国で広く見られた状況でもあった。
ただ、万福の経営(のちに大和食堂に改名)は起伏が激しく、郭さんが高校に入る頃は学費を払うのも厳しい状況だった。郭さんは店を継ぐことを決意し、店名を「味仙」に変更して再出発することにした。「酒仙」「詩仙」など道を極めた人に使われる「仙」を使ったのは、子供の頃から店を手伝っていて、料理に自信のあった郭さんの心意気だった。後に今池に移転し、大学進学を諦めて家族を支えるために店の経営と料理の道を歩み始めた。
台北・西門町で担仔麺と出会う
最初は、ラーメン、チャーハン、ギョーザを出す普通の中華料理店だったが、次第に台湾の味をメニューに取り込んでいった。最初の一品は台湾風にしょうゆと香辛料で甘辛くじっくり煮込んだ手羽先で、母の味だった。手羽先は今も台湾ラーメンと並ぶ店の看板メニューだ。手羽先の煮込みは作り置きができて、店にきた人たちが「ビールと手羽先」を頼んで待っている間に、他の料理ができるオーダーの流れを作ってくれた。
余談だが、現在、台湾ラーメンと並んで「名古屋めし」の代表格である手羽先の誕生とも味仙は関わっている。手羽先には成鶏の大きなものと若鶏の小さなものの2種類があるが、手羽先の名店「風来坊」の創業者が同じ頃、手羽先料理を出そうとして材料の入手に四苦八苦していた。小さな手羽先を風来坊に譲り、大きな手羽先に変更したという。そうした経緯から同じ手羽先料理でどちらも手羽中という部分を使っているが、風来坊のものは小さく、味仙のものは大きい。
次に生まれたのが、台湾ラーメンである。
「大阪万博が1970(昭和45)年でしたけど、その頃、台湾に行って担仔(タンツー)麺を食べたら、これはおいしい!これを覚えて日本で作ろうと思ったんです。担仔麺は台南の名物ですが、台北にも華西街の龍山寺のところに『台南担仔麺』という店があったんですね。ただ、材料は全部日本にあるわけではないから、試行錯誤で。担仔麺はにんにくでひき肉を炒めて香りを出して、下にもやしを敷いて麺を置き、スープをかけるんですが、台湾ラーメンも基本は同じです」
台湾ラーメンが担仔麺と違うのは唐辛子とニラが入っているかどうか、だという。台湾ラーメンの辛さは相当なものだ。スープをすすると、一呼吸置いて、猛烈な辛味が口の中に広がる。油断するとむせてしまう。台湾料理は総じて辛さとはあまり縁がない料理で、担仔麺も辛くない。現在日本の飲食店で台湾風というと辛く炒めたひき肉が使われるが、正確には「味仙風」なのである。
「今池には韓国の人も多く住んでいたから、唐辛子を入れたら喜ばれると考えました。結果的に台湾にない台湾ラーメンになったけど、きっかけは台湾の担仔麺だし、作っているのが台湾人だから、いいんじゃないかと(笑)」
予想を超えて、口コミで評判が広がった。味仙には他の店にない特徴があった。深夜営業である。普通、中華料理店は夜の8時や9時には閉まってしまう。味仙は遅い時間に働く人たちが立ち寄る店になっていた。
「お客さんは学生さん、ホステスさん、タクシーの運転手さんが多かったですね。あと残業している会社員の人たち。当時の日本では、台湾は農協の団体旅行先といったイメージで、今のように必ずしも好意的に受け取られたわけではなかった。“台湾”という名で売れたのではなく、単純においしかったから、口コミで広がったんだと思います」
今池店の営業が軌道に乗ると、郭さんの弟や妹の3人も、それぞれ名古屋を中心に分店を開いていった。現在味仙の名前を冠する店は合計で10店舗に達する。長男の郭さんは一つのルールを決めた。「他人に任せず、自分たちで経営すること」だ。弟や妹たちの店は、味やメニューが少し違うが、看板料理の台湾ラーメンを外す店はない。台湾ラーメンは味仙であり、味仙は台湾ラーメンなのだ。
台湾での生活経験はないが、郭さんは自分のアイデンティティーについて、「私は台湾人だと思っていますよ」とはっきり言った。
「中国人と同じ漢民族かもしれないけど、生活様式のほうは、台湾は台湾、中国は中国で違っていますよね。台湾は清朝の時代から中国に世話になったことはない。日本の50年間があったから台湾はここまで発展できたし、日本人と台湾人はいちばん性格が合うと私は思っています」
そんな郭さんだから、台湾ラーメンを作り出した、ということもできるだろう。味仙のメニューは、手羽先だけではなく、アサリ炒め、青菜炒め、腸詰めなど、台湾料理がずらっと並び、コロナで台湾に行けずとも、台湾の味を体験できる貴重な店だ。私も訪問時に一通り注文して食べたが、どれも台湾の味と変わらない。郭さんは台湾を訪れるたびに出会った料理を一つずつマスターし、味仙のメニューに加えてきた。台湾出身としての郭さんの人生の歩みと故郷愛が、味仙の料理からひしひしと伝わってくるのである。
台湾ラーメンの人気が高まると、多くの中華料理店の関係者が味仙を訪れ、味仙の味を学び、台湾ラーメンを出すようになった。「商標を取った方がいい」とアドバイスする人もいたが、郭さんは自由にさせ名古屋のあちこちの店でも台湾ラーメンを出すようになり、名古屋めしにリストされるまでになった。
「私が特許や商標取ると、他の店ができなくなるわけ。もしそうしていたら台湾ラーメンの名前はここまで広がらなかったでしょうね。みなさんが自由にメニューに載せるようになって、台湾ラーメンの名前も売れたんです。もう少し知恵があったら、人を使って安藤百福さんみたいな規模を大きくできたけどね(笑)。料理を通してね、台湾という名前を日本に認めてもらったことは、とてもよかったと思いますよ。台湾人としてうれしいよ」
いま、その安藤氏が創業した日清食品から台湾ラーメンのカップヌードルが販売されている。郭さんも開発に協力して味を徹底的にチェックしたというが、日清の技術力には「食べたら分かるけどね、日清は本当にうまく作っている。日清の研究所はすごいですよ」とうなった。
台湾人が編み出して人気になった台湾ラーメンを、台湾人が創業した食品会社が普及版を作って、世にさらに広めている。他にも全国的に有名になった「背脂」で知られる尾道ラーメンも、朱阿俊という台湾人が広島県尾道市の「朱家園」で戦後まもなく売り出した「中華そば」が始まりだった。このように、日本の国民食とも言われるラーメンを代表格として台湾人が日本の食文化に大きな足跡を残したことは、日本社会でもっと知られてもいいことかもしれない。
写真は全て筆者撮影
取材協力:国方学氏、内田稔氏
バナー写真=味仙の台湾ラーメン
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