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Tuesday, January 24, 2023

闇から光の中へ。彼女を救った「子どもの権利条約18条」〈269〉 - 朝日新聞デジタル

〈住人プロフィール〉
31歳(保育士・女性)
賃貸マンション・2LDK・西武新宿線 新井薬師前駅・中野区
入居3年・築年数27年・夫(40歳、団体役員)、長男(2歳)との3人暮らし

 中部地方にある実家は代々広大な土地を有し、不動産収入によって恵まれた経済状況だった。
 両親は共に東京の有名私大を卒業。
 母は専業主婦、司法試験に失敗した父は、帰郷するも仕事が続かず、彼女が乳児の頃は、昼間から酒を飲んでいた。
 父が昼夜逆転の生活でも、家賃収入があるため家族は食べてゆけた。

 三姉妹の三女の彼女は言う。
 「親に資産があると、子どもは公的に助けてもらいにくい。子どもの頃、児童養護施設に入れたらどんなにいいだろうと、ずっと思っていました」

 幼い頃から父のDV(家庭内暴力)がひどかった。
 矛先はいつも母だったが、時々子どもたちにも手が出た。
 高校受験真っただ中だった姉は、父から突き飛ばされサッシの窓を破り、血だらけの背中で救急車に運ばれた。父は警察から聴取を受けたが、なぜか何事もなく返された。

 母は公的機関の婦人相談員や、家庭裁判所の相談員にも夫の暴力による離婚をたびたび相談。
 しかし、助言はどこも同じでこうなのだと、母は毎回漏らしていた。──子どもが3人もいるその年で離婚したら、子どもたちがかわいそうだから、あなたが頑張って。
 経済的には何不自由のない家庭だったために、恐怖に震える子どもたちの存在は、さらに見過ごされた。

闇から光の中へ。彼女を救った「子どもの権利条約18条」〈269〉

届かない声

 「あなたを産みたくなかった」
 長女とは8歳差、次女とは5歳差の彼女が、母からよく言われた言葉の、一番幼い記憶は3歳である。
 「母自身も、言葉の虐待はひどかった。産みたくなかったと言われながら育った私は、死ねって言われて生きてきたのと同じだと、大人になってから気づきました」

 中学生になった頃から、父がいないところで、腹いせのように母が彼女に暴言と身体的暴力をふるい始める。

 14歳の4月、家にいた友達の目前で殴られたり蹴られたり、髪の毛を引っ張って引きずり回された。
 友達は養護教諭に報告。
 しかし、児童相談所(以下、児相)に一時保護されたのは4カ月後の夏休みであった。

 「なぜそんなにかかったのか、後に養護教諭から聞いたのですが、児相では“命に関わる状況ではない”と判断されたからだそうです。それも1週間で帰らされて。帰宅すると、両親の壮絶な喧嘩(けんか)も、母の暴力も変わらなかった」

 児相職員は、アフターケアとして自宅に電話を入れたが、母はよそ行き顔で答えた。
 「いろいろあったけれど、娘を愛しています。成人式には私の着物を着せるのが夢なんです。母として頑張ります」
 以来、この件で二度と児相からのアプローチはなかった。

 当時すでに、児童虐待防止法では、子どもの前で配偶者に暴力を振るう面前DVは、子どもへの心理的虐待にあたると認定され、ケアの対象になっていた。
 学生になってそれを知った彼女は語る。
 「地域格差はあるかもしれませんが、私の地元では法律と実態が合っていなかったという実感があります」

励ましの非情

 15歳、両親が別居。
 児相職員の指示は、「同じ県内の祖母の家から高校に通うか、全寮制の高校に進学すること」。彼女は後者を選んだ。入寮後、母はDVシェルターへ避難した。

 「自分の人生を好転させるには学歴しかないと思っていたので、幼い頃から勉強だけは必死にやっていました。だから偏差値に見合う行きたい高校もあったし、施設の措置も望みましたが、叶いませんでした。祖母宅に行けば “なんでお母さんといっしょに住めないの”と責めたてられ、家に戻されるだけ。でも学生寮でも、休みになるお盆や正月は、本当に苦しかった」

 2年生の暮れは、自宅に帰りたくないと号泣し、担任の家に一泊した。翌日、おそるおそる実家に帰る。
 彼女を見つけた母親が廊下を突進。“殺してやる”と包丁を振りかざしてきた。家から逃げ出すと、車で追われた。

 「離婚をしても、母の言葉の暴力や体罰は止まらなかった。母自身、長きにわたるDVで、苦しいところにおいこまれ、少しずつ性格が変容していったのだと思います」
 ふたりの姉が進学で家を出ていたため、暴力は彼女に集中した。

 養護教諭、高校の担任、スクールカウンセラー、教会。あらゆる人に相談した。
 とことん話を聞いてくれ、宿を貸し、相談に乗ってくれる人もいたが、最後にこう言われることが多かった。

 「強くなりなさい」
 「神は乗り越えられる人にしか試練を与えない」
 「子どもを愛さない親なんていない」

 もっと親しくなると、
 「親を赦(ゆる)してあげて」
 「もっと辛(つら)い人は世の中にたくさんいる」

 高校から大学にかけては、つらすぎてあまり覚えていないという彼女が、表情を歪(ゆが)ませ、手繰り寄せた記憶がある。
 「とても親身にお世話してくださった牧師さんに、“路上生活しながらでも頑張って生きている方もいるから、あなたも生きていける”と言われたときは、傷つきました。それ、自分の娘さんにも言えるんだろうかと……」

 それほど親しくない友達や大人は、もっと残酷だ。
 不労所得を持つ父、教員の免許まで持っている母がいて、三姉妹全員が習い事をし、ピアノが弾け、姉ふたりは大学に進学している。
 二言目には、「甘えじゃないの?」と言われた。

 「家に一日でもいるのが怖い。どこにも居場所がない。ものごころついた頃から、ずっとそうやって過ごしてきて痛感したのは、“かわいそうな人です”と名乗るには資格がいるんだな、ということ。私はどんなに訴えても、社会的にはその資格の外にいたのです」

 大学は、母の反対を押し切り、他県の私大の社会福祉学部に進んだ。なんとしても地元から離れたかったからだ。
 県内の大学に進学させたい母は、学費も生活費も出し渋った。親に資産があるため、奨学金の種類も限られる。
 学生時代はバイトで食いつないだ。
 
 「父は精神科に通い、母は抗うつ剤や抗不安薬を服用してはいましたが、ふたりとも正式な病名はついていません。今の私の目から見たらパーソナリティー障害かなと思いますが、確かなことはわからない。専門的なケアを受けていたら、自分の子ども時代はどうなっていたろうと想像することはあります」

 その大学生活で、生涯忘れられぬ教えと出会った。
 1989年に国連で採択された『子どもの権利条約』である。
 彼女は第18条に、魂を救われた。

 <子どもを育てる責任は、まずその両親(保護者)にあります。国はその手助けをします>(日本ユニセフ協会抄訳)

 全文の政府訳はこちらで、詳しくは、国は父母及び法定保護者が責任を遂行するために適当な援助を与え、擁護のための施設設備を整えるとある。
 彼女はこれを読んでハッとした。
 「つまり、保護者が“子育てが苦しい!”と声を上げた時、声を聞き、支える責務が国にある、というわけです」

 また19条では、あらゆる暴力からの保護を、20条では、家庭環境にとどまることが子どもにとってよくないと判断され、家庭にいることができなくなった子どもの保護がうたわれている。

 「私はそれまで自分が強くあらねばと思ってきましたが、保護されるべき権利を有していた。強くあれ、もっと大変な人は他にもいるという助言は、大人の怠慢だったと気づいた。殺されかけても、社会や国に助けられてきたという実感がない。家に帰りたくない子の権利も保証されるべきだったのです」

今、自分の心の傷に手当をしなければ

 ところが大学3年のこと。
 社会福祉士になるための学びの一環で、自己覚知という、自分自身を深く知る授業を受け、心のバランスを大きく崩した。

 「産みたくなかったという言葉や、ゴミみたいに感情を投げつけられた記憶が次々蘇(よみがえ)って。その日から、何を聞いても頭に入らなくなり、体が動かなくなってしまったのです」

 試行錯誤の末、休学を経て中退した。
 安全な帰省先がない。暴力が怖いので、アパートを借りるときの保証人も父母に頼めない。保証機関もなく、「全部困った」。
 金がないので、山小屋やリゾート地の泊まり込みバイト、地方のアウトドアメーカーでは社員として働いたこともある。

 全国各地で働きながら、保育士の資格を取得。東京の保育園に就職を果たした。なぜ、東京だったか。理由はふたつある。
 「トラウマに苦しんだ学生生活を経て、自分には専門的な治療が必要だと思ったのです。でないと、もう私の生きる力が尽きてしまいそうだったので」
 評判のクリニックが、杉並区にあった。

 もうひとつは、都の保育士不足だ。
 「家賃補助の制度があるのでありがたかった。東京は人権のある街だと実感しましたね」
 
 上京して間もなく、学生時代の知人を通じて現在の夫と付き合うようになった。トラウマ治療は3年半に及んだ。
 病名は、心的外傷後ストレス障害である。

 当時、夫は「自分と付き合うことで、治療の負担にならないか」と、直接その医師に相談し、病気を理解する努力を続けてくれたという。
 ただ、彼女は治療が深まるに連れ、正職員として働くのが心身上難しくなり、非常勤に。
 治療を終えた今は、児童養護施設と幼稚園を非常勤で掛け持ちしている。

 その間、28歳で結婚し、翌年出産した。
 いまは、大学院で社会福祉の学びを深めるか、このまま子どもの育ちの支え手として地域に関わっていくか、迷っている最中だ。
 いずれにしても一生のテーマは変わらない。

 「子育ての場面で、個人で頑張りきれないこと、社会が支えなきゃいけないことがある。私は、それらの問題を個人の資質で片付けるのではなく、社会のしくみから考えたい。私は子どもの頃ずっと、気づいて欲しかったし、声を聞いて欲しかった。だから子どもの声を大切に聞ける人になりたい。子どもの権利には“意見表明権”もあります。声を聞いてもらえなかったばかりに助けてもらえなかったからこそ、なんとかしたいし、そのための仕事をしたいのです」

闇から光の中へ。彼女を救った「子どもの権利条約18条」〈269〉

“生きる”を支えた味噌汁

 夫は、彼女のすべてを受け入れている。義母が、ふだんは機嫌が良くても、いったんスイッチが入ると、さまざまな行動に走ってしまうことも、彼女の話を通して理解している。

 料理が好きで、週末は彼が担当。音楽にも詳しく、世界中の多様なジャンルを楽しむ。彼女いわく「ぶれなくて、心が健康で、自己肯定感が強い人」。

 昆布とだしパックで作った彼女の味噌(みそ)汁が好物で、付き合っている頃から「ほんと、味噌汁旨いよね」と食べるたびに褒める。

 今は職場が近いこともあり、平日週に3回は、家に昼ごはんを食べに帰る。
 この日は、冷蔵庫に具材たっぷりの豚汁が入っていた。

 「母が私に与えてくれた唯一ポジティブな影響は、料理です。機嫌がいいときは、旬の食材や調味料、栄養やオーガニックにもこだわり、だしをていねいにとり、極力自分で調理したものを出していた。私も日々の食をしっかりていねいに作ること、とくにお味噌汁は大切にしています」
 落ち込んで食欲がない日も、お金がない日も、独身時代から味噌汁だけは作ってきた。
 「それが自分でできる、生きていくための土台になっていました」

 彼女の味噌汁がなぜ旨いか。最近、だしをとり終えたあとをたまたま見た彼が、謎を解いたらしい。
 「昆布の量がすごい。こんなにたくさん昆布を使うから、あんなにおいしいんだね!」
 2歳の息子は、ごくごくと喉(のど)を鳴らして味噌汁を飲む。そんなとき、じんわりと、胸の奥からあたたかくなる。
 「ああ、生きててよかったっていつも思うのです」

 彼や息子を見て、さらに強く実感した。
 「自分だけで乗り越えようと思わなくていい」

 苦しい人に頑張りなよ、強くなりなよと言いたくない。苦しい子どもや大人を、みんなで支えたい。あなたはどうしたいのかと、相手の声を受け止めあえる社会にしたいと、彼女は考えている。

 生きててよかったと思える味噌汁は、どんな味がするのだろう。
 今日も明日も、変わらず朗らかに作り続けてほしい。彼女の魂の盾となり、人生の羅針盤にもなった子どもの権利条約が、部屋の一番目立つところに貼ってある食卓で。

闇から光の中へ。彼女を救った「子どもの権利条約18条」〈269〉

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